虫唾も肉離れ

取り留めもなさすぎる

『とある雨の朝に作るカップ焼きそばについて』

あの朝が一体いつ頃の朝だったのか、たとえその季節さえも一度思い出そうと試みれば、両方のこめかみの奥の方(あるいは脳の中心部と言った方がいいかもしれない)がジリリと疼き、それが治ったかと思えば、今度は仄暗い靄が記憶を覆い隠してしまう。とにかくそれぐらい、僕にとっては「思い出す程のことでもない」平凡で、しかしとても強い雨がーマリアナ海溝をそのままひっくり返したような雨だー屋根を力強く叩いていた朝だった。

 


うちの屋根はその朝、ひたすらに轟音を立て続けていた。かなり深い眠りの中(それこそマリアナ海溝のヒラメとでも目が合いそうなくらい深い眠りだ)にいた僕でさえ、屋根を打ち続けるその音の下には眠り続けることが出来なかった。海底から唐突に引き揚げられたのだ。僕は起きてまず、自分の体が水圧で膨れ上がってないか確かめる必要があった。

 


ひとしきり自らの体の無事を確認した僕は、その最中、胃袋が空腹を訴えかけていることに気が付いた。腹は呼吸障害の野良犬のいびきみたいな音を上げた。僕はベッドから起き上がり、腹をさすりながら窓辺に向かい、カーテンを開けた。

 


酷い雨だった。外に何か腹の足しになる物を買いに行こうにも、窓の外を見るだけで辟易した。そういう類の雨だった。僕が若い頃、初めて女性とセックスをした夜も、似たような雨が降っていた。少なくとも僕には、その夜が永遠に続くように思えた。しかしいざ目が覚めてしまえば、夜は明け、雨は上がり、ついさっきまで体を重ねていた彼女は消えていた。走り書きの電話番号を書き物机の上に残して。

 


カーテンを閉じ、再びベッドに腰掛けた。ベッドは僕の存在意義を贔屓も冷遇も忖度もなく、あくまで正確に計った上で、軽く沈んだ。

僕は少し溜め息をついた。そしてもう一度眠り直そうかとも考えたが、今の僕にはそれは到底不可能だった。眠気はとうに消え失せ、夢は干上がっていた。そして体が現(うつつ)を受け入れようとすればするほど(時計の針は8時14分を指し、右の肩甲骨あたりに微妙な痛みを感じ、昨晩の夕食時より少しだけ髭が伸びている)、腹に疼く空腹感がその体裁を徐々にはっきりと帯始めていく。

 


僕は枕元に置いてあった少し度の強い銀縁の丸い眼鏡をかけ、寝室を後にした。二週間ほど前に、カップ焼きそばを1ダースまとめ買いしていたことを思い出したのだ。

キッチンの左下の戸棚を開ける。そこには2リットルの水のペットボトルが4本と、未開封の1.8mmのパスタが300グラムずつ入った袋が3つ、そして買って収納してからまったく手のつけられていないカップ焼きそばの山が、整然と並べられていた。僕はその中から一番手前のものを手に取った。扉を閉めると、戸棚は頭の固い政治家の咳払いみたいな音を立てた。

 


僕は別の戸棚からやかんを取り出し(世の中はあらゆる物を仕舞う為の、あらゆる戸棚で溢れている)、軽く水で洗い、目分量で水を入れ、火にかけた。コンロは弱々しい音とともに、炎を上げた。そのうちやかんは堰が切れたみたいにけたたましい声を上げ、お湯の沸騰を僕に知らせる。僕はやかんを一度隣のコンロに移し、そしてシンクの横に置いてあったマールボロの箱から煙草を一本取り出し、コンロでその先に火を灯した(僕がいつも煙草を吸う場所と言えば、キッチンの換気扇の下と相場が決まっているのだ)。

そしていよいよ、僕はカップ焼きそばを覆っているビニールを剥がし、蓋に取り付けてあったソースを外し、薬味を取り出し、やかんのお湯を注いだ。そして僕は冷蔵庫の扉にくっ付けていたマグネット式のタイマーを設定した。蓋の上にソースが入った小袋を置いて重石代わりにした。

 


「三分」

 


今の僕には、この三分の間に「聴くべき」音楽なんて、何一つ思い当たらなかった。

「やれやれ」

僕はまた一つ溜め息をついた。声が漏れたかどうかもよくわからないくらい、無意識で平板な溜め息だった。窓の外では飽きもせず雨が降り続いている。僕は干上がった海底で、青空に睨みをきかす一尾のヒラメを想像した。きっと彼/彼女には、他の魚たちよりも、よりずっと、青空の無垢さに目が痛むはずだ。僕にはどうあがいても彼/彼女たちの、太陽を知らない生涯というものを想像出来なかった。僕は煙草を吸い終え、シンクのちょっとしたスペースに常置しているコーヒーの空き缶に吸い殻を入れた。

 


ぼんやりと食器棚に背をもたせかけていると、ついに冷蔵庫のタイマーが鳴った。外の雨音に怯んでいるような、弱々しい音だった。

 


僕はカップ焼きそばの蓋に付いている湯切り穴からシンクにお湯を捨てた。すると忽ち湯気が立ち上り、カップ麺の香りが僕を覆った。僕は割にこの匂いが好きだった。この匂いの為にカップ焼きそばを作ったと言っても罰は当たらないくらいだ。僕は最後に三回か四回、麺が溢れないようにカップを振り、丁寧に湯切りをした。そして重石代わりにしていたことで少しあったまったソースを、麺の上に円を描くようにかけ、食器棚から取り出した箸でよく混ぜほぐした。何度か麺を持ち上げては混ぜ、持ち上げては混ぜるのを繰り返した。そして全体にソースが行き渡った所で、付属の青海苔を振りかけた。

 


僕はさらに食器棚からグラスを取り出し、冷蔵庫の中にあったパックの麦茶を注いだ。そして出来上がったカップ焼きそばと麦茶を持ってダイニングテーブルに向かった。全国チェーンの家具屋で買った、無個性なダイニングテーブルだ。

椅子に着き、ひとまず麦茶を飲んだ。一昔前に小児科が建てられていた更地みたいな味のする麦茶だった。僕はテーブルの上にあったリモコンで、テレビの電源を入れた。チャンネルをいくつか回したが、勿論、そこには僕の観るべきものなんて何一つ無かった。分かりきっていたことだ。ただ一つの生活のルーティンとして、電子の波に惰性という笹舟を浮かべたのだ。僕は諦めてテレビの電源を切り、箸で焼きそばを掬い、すすった。そこには約束された濃さの味があり、固すぎず柔らかすぎない麺の食感があった。三部作ある映画の三部目みたいな出来だった。

 


外の様子は僕が目覚めた時から何一つ変わらない。雨脚も依然として緩める気配はなく、機械仕掛けの風景だ。まるで僕一人だけが時間の流れに身を許してしまっているみたいだ。

僕は最後の一口をすすった。これといって特に有り難みもなければ口惜しさもない一口だった。そしてグラスに残った麦茶を飲み干し、三度目の溜め息をついた。僕は両目を瞑り、もう一度ヒラメのことを想像した。ヒラメの棲む街は再び海を取り戻し、彼/彼女は夢で見た大きな光を思い出していた。

人との距離のはかりかた


plenty 「人との距離のはかりかた」

 

すごくいい曲ですよね。

 

でも今日は僕の好きなバンドの話をするのではありません。(ちなみにこのplentyはこの曲とあと2,3曲しか知りません)

 

今日はこの曲のタイトルにもある

「人との距離のはかりかた」

について少ししたためたいと思う。

 

というのも今月で現在勤めている職場を去り、就業期間で言えばかなり短い期間であったものの、(本当にありがたいことに)先輩後輩から、自分との別れを惜しんでくれるようなことを頻繁に言ってもらっている。

 

そんな中で、とある後輩からこんな事を言われた。

「前田さんは他人との間に壁を感じさせない」

 

それを聞いて僕自身は、正直リアクションに困った。

多分後輩は良い意味で言ってくれてるんだろうけど、何というか腑に落ちないというか、自分は今まで「そういう意識」で人と接したことが無かったからだ。

 

ここで改めて、自分なりの人との接し方、初対面の現場のくぐり抜け方を洗い出してみようと思い立った。

 

まず基本的に、僕はどちらかと言えば内向的な性格で、人見知りだってする。初対面の人と接する時はかなり緊張するし、盛り上がってすぐ連絡先を交換、みたいなこともまるでない。

ではそんな僕がたとえば初対面の人と接する時、どうくぐり抜け、そして「それなりに良い人間関係」まで持ち込むか。

 

そう、まずは『様子をうかがう』である。

 

一対一にせよ一対複数にせよ、基本的には僕は先手を取らない。とにかく相手の出方やその場での人となりなどを観察する。

 

そしてそこでそれなりに相手方の雰囲気なり喋り方、癖、なんでも拾えるものは拾い上げて、背中の籠に入れていく。検品に通りそうにないものまでも。

 

そしてそれを重ねる過程で一番大事なのが、その場で距離を詰めようとし過ぎないことだ。

これも状況によりきだとは思うが、例えば職場の先輩後輩同僚相手だと、僕はかなりの期間、待った。そして観察した。

そして、それぞれの人に相応しい間合いを詰める。それ相応の時間をかけて。

 

だいたいこんな感じで、新しいコミュニティに属する事になった時はくぐり抜けてきた。

 

これにもう一つ付け加えるとすれば、「自分に合わない」と思った人には必要以上に距離は詰めないことだ。

たとえばそれが職場だとすれば、否応無しにある程度の距離を詰めなければならない状況も出て来るだろうが、それ以上は足を踏み入れない。

一人でも多くの人と仲良くなりたい、みんなと仲良くならないと気が済まない、と考える人であればこのやり方はおススメしないのだが、個人的には合わない人は最後の最後まで合わない。

そこに時間をかけるくらいだったら、他の人との距離感についてもっと考えた方がマシだ。

 

果たしてこのやり方が、後輩が言ってくれた「壁を作らない」結果に繋がっているのかはよくわからないが、少なくとも「相手方にある程度の隙を見せている」のは確かだ。それが結果的にウォールレスな関係を築けている所以になっているのかもしれない。

 

ここまで書いた通り、僕は人との距離感、立ち回りについて、結構深く考えている。

 

そして同じ職場に、こんな僕とはまるで対照的な距離感の取り方をしている同い年の輩がいた。

 

彼の名前を仮にサワダとしよう。

 

見た目はもう、文句のつけようのないくらい、体育会系だ。(俳優の石垣佑磨さんに似てる)

もし現代の科学者達が何を思ってか、後世に「世界中の体育会系の人間」のサンプルを残す人類選別を始めたら、彼は間違いなく日本代表に選ばれるだろう。(バカでかいカプセルの中で、冷凍保存が待ってるぞ!サワダ!)

 

そんな彼の人との距離の詰め方は、本当に才能と呼んでも差し支え無いとさえ僕は思っている。

 

そう、彼はとにかく土足でズカズカ入ってくる。

 

丁寧、丹念に下調べを重ね、身だしなみ・口臭チェック・咳払いのうちにノックを3回する僕とは違い、彼は気付いたら既にもうリビングまで上がってテレビのチャンネルを勝手に変えている。

 

なんかもうそこまで清々しく堂々とパーソナルな所に入って来られると、逆にもてなさない方が失礼なのかな?とさえ感じてくる。(多分僕はダッシュでコンビニに行って、アルフォートハッピーターンの大袋と、コーラとなっちゃんを買って帰るだろう)(ちなみにこれが僕の最高のもてなしだと思ってます)

 

そんな具合で僕は彼の泥の足跡をボーーッと見つめながらも、そういう人との距離の詰め方もまあアリかな?と思ってしまう。

彼には彼の考え方があり、きっとそういうスタイルに落ち着いたんだろう(たぶん)。

それにサワダは初めこそ図々しいキャラではあったが、今ではそれとなく愛されキャラになってるし、やっぱりどんなやり方でも信念を持って継続することが大切なのかなーと。

飽き性のオルニチンサプリメントとして

 

 

 

皆さんはオルニチンサプリメントをご存知でいらっしゃいますか?

そう、あさりだのしじみだの何十個分もが一粒に凝縮された、あの健康食品である。

結局あの手のコマーシャルは、自らに購買意欲が全く無いせいか、最終的に何処に何がどう効くのかイマイチよくわからないまま、胡散臭さだけが妙に残ってしまいがちだ。

いや、そんなことは結構どうでもよくて。

僕が言いたいのは「飽き性のオルニチンサプリメント」こと私・前田鯖雲(ありとあらゆる「飽き性」の成分を三日三晩ぐらっぐらに煮詰めて凝縮した存在だと自負しています)がいよいよ人生3度目のブログを始めてしまったということである。

 


そう、3度目があるということは、もちろん1度目2度目があるわけだが、いずれにしても僕の飽き性の被害者A・Bなのである。僕は前科持ちで、懲りずにまた再犯を試みようとしている。

「前田の飽き性・被害者の会」なんて組合が打ち立てられて、日夜報復計画が練られているかもしれないな。

そしてそれらはまた同じくして、かなり短い期間で儚く終焉を迎えている。「蝉の儚さ」といえば聞こえはいいかもしれないが、実際は流行りもんのスマホゲームみたいな感覚で、「やってる気分」を触りだけ味わいたいがため、ガチャ引いて、そして段々ログインボーナスを貰うだけ貰うようになって、後はアンインストールである。

 


僕の飽き性はブログだけに留まらず、これまでの人生で何かを継続的に続けられたことがまずない。

今コソコソやってる詩作活動だって、一昨年の末くらいからやってるけれど、途中何度もブランクがある。長い期間で数ヶ月の時もあった。そろそろ現代詩界の冨樫先生の肩書きを掲げても、十分遜色ないだろうな。

 


例えば学生時代、バンドサークルに入ってて、そこのメインはコピーバンドの活動だったんだけれど、何となくオリジナル曲も作りたくなり、サークルとは別でバンド活動を始めたりした。

しかしそれも何というか、バンドメンバーとそんなに頻繁に集まる事もなく、一曲仕上がるか仕上がらないかで「自然消滅」してしまった。(ところで「自然消滅」って言葉すごく便利よね。僕も人生の節々で窮地に陥ったら「自然消滅」してしれっと消えたいものだ)

 


趣味という趣味も特になく、「映画を週に一本は必ず観よう!」と意気込んだ翌々週にはDVDを借りに行くことが面倒になり、白旗。

英語のショートストーリーが100篇掲載された本を買ってきて、「毎日1篇ずつ訳していくぞ!」と本を開けば、その数日後には本棚の奥の奥に。

写真だって撮ってる時は凄く楽しいけれど、いざ現像しに行こう、となると耳元で「飽く魔」の囁きだ。腰が段々と重くなってくる。むしろ現像なんて写真の醍醐味だけれどね。

 


そんな感じで総合的に僕の人生は「なあなあ」だ。

これからもずっとこんな感じでぼんやり過ぎて行きそうな気がするし、趣味だってちょっとしたスパイス程度だと思う。

だから一つ味に飽きたらまた味を変えるし、刺激にも飽きたら今度はすぐ甘いものに手を出すかもしれない。

 


果たして初っ端からこんなスタンスではありますが、皆様の人肌温度の閲覧数がきっとモチベーションに繋がりますので、本当に暇でやることの選択肢も潰えた時には、このブログを覗いてみてください。

宜しくお願いします。

 


ではまた。